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がん闘病を体験し双極性障害とお付き合いする三福祉士(社会福祉士・精神保健福祉士・介護福祉士)が「心身の健康」についての情報をお届けします。

「空気」の研究 覚え書き①

山本七平著 「空気」の研究を読みました。

 

『臨在的存在』という言葉をちゃんと理解しておかないと読み進めるのが難しい。

電子辞書をひくと、これはキリスト教で使われる言葉らしいです。

「臨在」ーキリスト教で、見えない神がそこに存在すること。また人の行為を通して、神が働きかけたこと。(精選日国)

私の電子辞書の広辞苑には載っていない。ブリタニカでは「現存」へのリンクが出てくるだけでした。定義が難しい言葉なのか、宗教用語で一般には使われない言葉なのかもしれません。

 

これは、心の中に常に神さまがいる。という感覚、と思っていいのだろうか。

昔の日本だと、お天道様が見ている。という感じで、それは外側になり、死んだばあちゃんが見てるよ、とかでもいいのかもしれない。

大きな違いは、それが内にあるか、外にあるかということでしょうか。

 

一神教の場合、それは常に「神」として存在する。内なる接触がある。自分は神に似せて作られたのだから自分を通して神を感じる。それがどんな姿だとか、どんな名前だとかは問うてはいけない。神は神なのだ。(偶像崇拝の禁止)

しかし、日本人の場合、内なる接触はその時々で入れ替わる。台所では台所の神様、トイレにはトイレの神様、伊勢には伊勢の神様、出雲には出雲の神様がいて、それは菩薩でも、ご先祖様でもいい。つまり、入れ替え可能なのだ。

結婚式の時には教会で愛を誓う。そこには「愛」の神様がいる。たぶん。

つまり、いると思えば何でもいるということ。

それはつまり、いつでもスペースがある、ということではないか。

一神教の場合、そこには常に変わらぬ「神」がいる。トイレに行こうが、観光でお寺に行こうがそれは変わらない。

でも日本人だったらたぶん、観光で行った外国の神様にも本気でお祈りすることが出来る。心の中になにがしかを感じる人もいるかもしれない。ひどく柔軟で、融通がきく。

だからこそ、何かの拍子に「その場所」に何かが入り込んで来た時、あっけなく、居場所を与えてしまうのではないか。

つまり、この本の言葉で言えば、情況倫理的になる。

一神教の場合は全ては神の創造から始まっている。この世界は神のものなのだ。だから固定倫理となる。神が与えてくれた基準を守る。

 

こう言うと、日本人の心は空っぽなのかと言われそうですが、空っぽではなく、忘れている時以外は、その時々で柔軟に入れ替え出来るとうことなのではないかと。

仏教で言うとそれは煩悩で、それを空っぽにすることが仏教的瞑想で、禅とかもそうではないだろうか。(一神教の場合は神とだけ繋がっていることが瞑想なのかもしれない)

 

さて、それがどう「空気」の「醸成」につながるのかといえば、父と子の矮小化によってである。(と、この本には書いてあると思う)

一神教では父と子は、神と私、である。それは代替えがきかない。

しかし日本では、臨在的存在は入れ替え可能だから、父と子は会社と社員とか、コーチと選手とか、文字通り親と子とか、その時々で変えていい。

それらの父からみた子、子から見た父はそれぞれの対象への一方向的 (双方向の場合もあると思う) な感情位移入によって自らを相手と一体化させる。

 

なぜ、一体化させられるのか。それは心というものは内にあるもので、外にはないからである。つまり、対象を飲み込んでしまう。消化出来ればいいのかもしれないが、普通は飲み込んだものに乗っ取られる。(ということがこの本では言いたいのではないか)

もしかして、昔の人は意図的にそれを吐き出すことが出来ていたのではないか?お天道様が見ている、というように。墓に行けば、草葉の陰にご先祖様がいるのである。つまりその頃は「心」と「世界」が結びついていたのではないか。内と外を行き来出来たとも言えるかもしれない。そしてその心は祭で表出されていたのではないか?

 

しかし、西洋的価値観の流入によって、あるいは資本主義、生産と消費が終わりなく繰り返される世界の始まりによって「自我」を強く意識せざるを得なくなった。

物欲を常に持ち続けるには強い自我が必要となる。私は私。私の中には私しかいない。そうすると、何か強い印象を受けたものがあると、それがそのまま「私」に飛び込んで来る。

一神教の場合は「私」とともに、基準となる「神」がいる。神は代替えがきかない。その座が奪われることはあり得ない。

何かが飛び込んで来ても神の秩序に叶わなければ外に吐き出される。(外に吐き出した上で関わるということはあるかもしれない) 、対象そのものに飲み込まれることは無いといと思う。それは神の座を明け渡すことになるから。

 

で、「私」の中に飛び込んで来ただけなら、それは一瞬の自己喪失で済むかもしれないが、それが集団に起こると、一時的な「信仰」のような状態になるのではないか。

単に「私」だけでなく、「私たち」に飛び込んで来たものは何か大切なもの、意味あるものに違いないと確信するのではないか。そして、それがある程度の規模になると集団的自己喪失が起こるのかもしれない。その中で誰かが目覚めて声を上げても、本にある通り、非国民!つまり、お前なんかは仲間じゃない!となるのではないだろうか。(全体空気拘束主義)

②へ続きます。